幸せの秤
 
幸せって、何を基準に決めるのでしょうか。
いろんな人の言う幸せを見ていると、だんだん判らなくなってきます。

 例えば、旦那のお婆ちゃんの場合、100才までいろいろあったけど、
ひどく寝込むこともなかったし、孫やひ孫と同居だし、皆お婆ちゃんと慕ってるし
、子供も近くにいてよく顔を出してくれるし、最期も家で皆に見守られたし、
幸せな人生だったと人は言うけれど、果たして本当に幸せだったかは、定かでない。

 それはやはり、自分が子供の頃に親の愛情を感じないで生きてきて、
人の親切にも裏があるように思えたり、家族に不満ばかり抱えてたら、
その人の人生は不幸の何ものでもない。

 以前書いた『友の死』の友人は、実母と早くに別れ、継母とも上手くいかず、
身体も弱く、学校も中退せざるを得ず、友人とも離れ、結婚した相手はやくざ
みたいな人で、暴力もあったり、お金がなくてひもじい思いもしたろうに、
彼女はいつも穏やかに微笑んでた。
二人の子供を授かる事で、自分の生き甲斐を見いだしていた。
だから彼女は幸せだったのでしょうか。

 又、旦那はずっと『夢』の為にもがいています。
夢を持てる人は幸せと言うけれど、夢があるから多くの挫折を抱え、
壁もどんどん高くなり、ひたすら苦しんでいます。
身近にいる同じカメラマンでも、『夢』の為でなく、『生きる為』
に写真を撮ってる人は、多分これ程の挫折も苦しみも味合わないで
通り過ぎるでしょう。
どちらがいいのか判りません。
挫折を乗り越えた先に何かが見いだせれば、幸せなのかも知れないし、
もっと深い苦しみにもがくのかも知れません。
知らないですめば、その方がいいのかも知れません。

 私は自分の夢がはっきりせず、やっぱりもがいています。
子供にいろいろ託したいことはあるけれど、私個人の生き様を考えたとき、
どう生きたいのか、どこに向って歩けば良いのか、いい年こいて、
未だに見えません。
もしかしら、一生捜し続けているのかも知れません。
『何か始めるなら今しかない』というあせりもあるし、
『もう、あるがままで生きよう』と思ったり、
『やっぱ私はこの程度の人間なんだ』と諦めたり、
(どうも、昔から「お前は駄目だ」と言われ続けたから、自信喪失症に
なっている) 
毎日そんなことで時に流されていて、何の進歩もない。

 ただ一つ判ることは、幸せは誰が決めるのでもなく、(神様でもない)
自分が決めることで、心のあり方で近くにあったり、遠かったりするん
だろうなって事と、いろんなことに自信を持てないのも、人に言われたからではなく
、やっぱり自分の弱さのせいだから、自分で努力するしかないって事。

 これから子供も思春期に入り、いろいろ悩んだり苦しんだりしたときに、
一つの見本として自分を見せなきゃいけなくなるでしょう。
そんな時に、胸はって『お母さんはこんな人間なんだ』と言えるのか、
それを知った子供が自分をどう思うのかとても不安になります。

 でも、どうせ幸せは自分の心次第なら、「今が幸せ」と言い続けられる方が
ずっといいですね。
| 詩集 | 雑記帳 | 写真散歩道 | 掲示板 |
| ホーム | 娘たちのページ | だんなのページ | 仕事のページへ|

このサイトの運営はCHIZURUです。
(C) 2003 CHIZURU